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天淳中原瀛眞人天皇上 天武天皇(現代訳)

 天淳中(淳中、これをぬなという)源瀛眞人天皇は、天命開別天皇(天智天皇)の同母弟である。 幼時の名を、大海人皇子と申し上げた。天皇は、生来すぐれた資質があり、成人してからは武勇に長け、 天文・遁甲(占星術の一種)の才能もおありになった。 天命開別天皇の女菟野皇女(後の持統天皇)を納れて正妃となさった。 天命開別天皇の元年(天智称制七年)に、東宮にお立ちになった。

 四年(天智十年)の冬十月の庚辰(十七日)に、天皇(天智天皇)は病に伏し、苦痛が激しかったので、 蘇我臣安摩侶を遣わして東宮を召し、御殿におまねき入れになった。かねて東宮に好意をもっていた安摩侶は、 ひそかに東宮をふりかえり、「おことばに御用心なさいませ」と申し上げた。東宮は、何か陰謀があるのではないかと、御警戒になった。

 天皇は、東宮に勅して皇位を授けようとされた。しかし、東宮はこれを辞し、「残念な事に、私はもともと病気がちでございます。 国家を保って行く事は出来そうにございません。天下のことはすべて皇后(倭姫王)におまかせになり、 大友皇子を儲君(皇太子)にお立てなさいませ。私は今日から出家の身となり、陛下のために仏事を修めようと思います。」と申し上げた。 天皇はお許しになった。東宮は、その日のうちに出家し、僧の身なりをし、私有の兵器を残らず集めて官司に納めた。

 壬午(十九日)に、東宮は吉野宮にお入りになることになった。
左大臣蘇我赤兄臣・右大臣中臣金連、および大納言蘇我果安臣らは、東宮に見送って菟道(宇治)までいき、そこから引き返した。 「虎に翼をつけて放すようなものだ」という人もあった。夕方、東宮は嶋宮(明日香)にお着きになった。 癸未じ(二十日)に、東宮は吉野にお着きになり、そこに落ち着かれた。
この時、東宮は舎人達を集め、「私は仏の道を修めようと思っている。それゆえ、私と一緒に仏の道を修めようと思う者はここに留まれ。 官人として身を立てようと思う者は、もどって官司に仕えるがよい」と言われたが、退出する者はひとりもいなかった。 そこで今一度舎人を集め、同じように云われたところ、舎人達の半数は留まり、半数は退出した。… 略

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(東国へ出発する部分の現代訳)

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