(如意輪寺) |
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大塔宮護良親王の死後、後醍醐天皇は建武の中興を果たします。 しかしそれも束の間の夢と破れた後醍醐天皇は、延元元年(1336)京都花山院をのがれて吉野山に身を寄せ、 その後も吉野山にいて南朝を起こしますが、延元4年8月16日、皇位を後村上天皇に譲った後、52歳でこの世を去ります。 この陵は別名「北面の御陵」ともいい、後醍醐天皇の遺骸は如意輪寺の裏山、塔の尾へ埋葬されました。 後醍醐天皇の京都に対する思いを表しています。 又この寺を有名にしたのは、正平2年(1347)12月27日出陣前の楠正行が、 一族143名を引き連れて後醍醐天皇の陵に詣で、如意輪堂の壁板に かゑらじとかねて思へば梓弓 なき数にいる名をぞとどむる という辞世の句を残したことです。その後正行は、四条畷に向かい足利方の高師直の大軍と戦い、あえなく戦死しました。 境内には、そのとき正行一行が如意輪観音の前に切って供えたという髻を埋めた「もとどり塚」があり、 辞世の句を刻んだ扉も宝物殿に収められています。 |