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 龍在峠の看板

(龍在峠)

 この峠もやはり、多武峯から吉野に入る峠の一つです。『吉野町史』によると、 「この道は金峯山詣でや吉野の花見客で賑わっていた。」と記されています。 明治初年には旅館1軒、茶屋4軒を含む8戸がある集落でした。 これは、中世以来奈良・三輪・初瀬から多武峰を経てくる旅行者がどんなに多かったか物語るものです。 このような旅行者の一人に本居宣長がいました。子供に恵まれなかった宣長の父が、吉野水分神社へ祈願したおかげで出生した宣長は、 自分のアイデンティティーを求める旅でこの峠を訪れました。

(龍在峠から見える冬野の景色

(龍在峠から見える冬野の景色)

 明和九年(1772)、宣長四十二歳の春、門人知人4人を連れて訪れています。 この時の様子は紀行文『菅笠日記』に記載しておりますが、その解釈について前登志夫先生は著書『吉野紀行』の中で、 「近頃では遠い所の花だよりでも居ながら知ることが出来るが、それでも花開くと散るのが時として居様に早く少しの気候条件で素早く変化する桜は気がかりなもの。 まして江戸時代のことである。伊勢から歩いて名張山を越えてくる宣長にとっては、吉野山の花の様子こそ心配だった。 吉野山は竜在から吉野川を隔てて真南に位置する。まさに指呼の間である。ここから見える山上ケ岳が実にどっしりとしている。 その右手に弥山の方へつらなる山塊が角をはやしたようにたかぶっている。 そのあたりから南西に広がる熊野への山また山の眺望はまさに空の冥府であり、古代の常世国である。」と記されています。

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