このコースの楽しみ方

このコースの楽しみ方について

 後醍醐天皇は北条幕府を倒し、建武の中興を果たしましたが、実際に幕府打倒の為に最前線で活躍した人が多くいました。 武士方では楠木正成新田義貞でしたが、 宮方で活躍した人物が後醍醐天皇の第三皇子とされる大塔宮護良親王でした。 大塔宮は比叡山に入山し、ここでの修行の結果、天性と相まって、武芸といかなる難局に直面してもめげない心を築きあげました。

 そして後醍醐天皇が北条幕府に捕われ、壱岐の島に幽閉されている頃、宮は父後醍醐天皇の意を受け、 吉野・熊野の修験山伏らと呼応し、畿内の北条軍と戦い、元弘2年(1332)の暮、吉野山に吉野城を構えました。 この吉野城は堅固であり、六万余騎の北条軍も責めきれません。しかし、桜咲く春に北条軍の吉野城に対する総攻撃が始まります。 宮の吉野軍は北条軍の20分の1の勢力でよく戦いましたが、なにせ多勢に無勢。 いよいよ落城の時が迫ってきました。そこで大塔宮護良親王は、蔵王堂の大庭で幔幕を張り最後の酒宴を開きました。 その跡が今の四本桜の場所とされています。その後村上親子の死をかけた身代わり策で九死に一生を得た親王は、 無事逃げ延びることが出来ました。

 その後、親王は新政権の中心人物である征夷大将軍となりますが、父後醍醐天皇の手によって捕らえられ、 鎌倉に連行されそこで殺害され、28歳という短い生涯を終えることになります。

 我々は、父後醍醐天皇の打倒幕府の綸旨を忠実に守り、ここ吉野で戦った大塔宮護良親王は、 後醍醐天皇以上に吉野の人間にとって身近な存在として考えられています。 その余りにも早く生き急いだ大塔宮護良親王の、吉野での足跡を歩いてみませんか。

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