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(吉野歴史資料館) |
やすみしし わご大君 神ながら 神さびせすと 吉野川 激つ河内に 高殿を 高知りまして 登りたち 国見をせせば 畳づく 青垣山 山神の 奉る御調と 春べは 花かざし持ち 秋立てば 黄葉かざせり せ逝き副ふ 川の神も 大神食に 仕へ奉ると 上つ瀬に 鵜川を立ち 下つ瀬に 小網さし渡す 山川も依りて仕ふる 神の御代かも 柿本人麻呂(巻1-38) |
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これらの歌では、小高い所に宮殿を造営し、そこで国見をした様子は現在の歴史資料館付近だとされています。 その理由として、ここからが聖なる青根ケ峰を望むことの出来る場所だからです。 文章で最初に「吉野宮」が現われるのが656年で、斉明天皇が吉野宮を造るとされています。 又671年に大津宮を出た大海人皇子一行が8ケ月滞在したのも、この吉野宮ではないかとされています。 その後天皇となった天武・持統・文武らがこの宮を訪れました。そして、元正・聖武天皇時代には、 大規模な「吉野離宮」が造営されたとされています。当時ここは「瀧の都」とも呼ばれ、 いつしか変化して宮滝と呼ばれるようになったのかもしれません。持統天皇は、この丘から祈雨止雨以外に、どんなことを願ったのでしょうか。 夫の大海人皇子とほんの僅かの従者で、雪降りしきる中で越えた芋峠のことでしょうか。 臨戦常態にあったものの、この美しい自然の吉野で過ごし、夫婦の絆を確認しあった時のことでしょうか。 結果として果たすことは出来ませんでしたが、この地で大津皇子らと交わした盟約のことでしょうか。 |
(吉野宮のジオラマ) |
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(持統天皇の国見風景) |
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この地に立つと、様々なシーンが彼女の頭を走馬灯のようによぎって行ったのではないでしょうか。 しかしこの時期は中央集権の黎明期であっただけに、強い天皇として皆の前では振る舞わなければなりませんでした。 天皇として果たすべき役割のある土地であると共に、本来の彼女自身に戻れる場所。それが、この吉野だったのではないでしょうか。 |